「逢希、もう別れたい。好きな人ができたんだ」
目の前の彼に言われた、一言。
私は表情を少しも変えずに、ぽつり、とつぶやいた。
Hello,Goodbye.
「そっか。分かった」
「うん……」
窓から差し込む光もだんだん赤く染まってきている、埃くさくて薄暗い教室の中で、私と彼はふたりっきりでロッカーの隣で向かい合っていた。彼は気まずそうに床を見つめて、私の目を見るのを避けている。しっかりと肩にかかっているはずの鞄を、何度も何度も持ちなおすその姿を見ていて、私の心の中で様々な感情がざわめいた。
なによ、なにかと思えば別れ話?意味わかんない、意味わかんない、意味わかんない。
抱きしめながら、お前だけだって言ったのは誰だった?今さらその台詞を覆そうったってそう簡単にはいかないのよ!
「……ごめんな。逢希なら、分かってくれると思って」
何、それ?そんなの一生理解してやらない!私がそんなに物分かりのいい人間だと思ったら大間違いよ。
馬鹿みたい、あんたなんてこっちこそ願い下げだわ!
「じゃあ、バイバイ」
私は結局最後まで目を合わせることのなかった彼の去っていく後ろ姿と、そこから伸びる長い影を黙って見送った。
悔しいなんて思ったら、私の負けだ。
あとにはひとつ、私の影だけが黒々と残っていた。
「どうしたの、逢希。なんか暗くない?嫌なことでもあった?」
次の日学校に行くと、親友の晴菜が心配そうな顔を浮かべて、私の机に寄ってきた。
私は普段とまったく変わらない風に笑ってみせた。
「ううん、別に。ただちょっと振られちゃっただけ」
「振ら……え!?加原に?」
「そうだよ。昨日ここで振られたの。あっさり、好きな子できたーとか言って、」
晴菜は私以上にショックを受けたようで、目をまんまるく見開いたまま絶句した。
いつもならくるくる出てくるはずの悪口雑言も口から出てこない。
彼女はきょろきょろと教室を見回して、加原が隅のほうで仲間たちと額を寄せ合ってなにかを熱心に話し合っているのを見つけた。
はあ、と晴菜は溜め息を大きくついた。
大声で加原への文句を並べ立ててやりたいところだが、本人どうしがいるこの中では、あまり芳しくないと思ったようだ。
「あいつ最っ低。逢希みたいないい子振るなんてどうかしてるよ。許せない、加原のやつ、なにが好きな子ができたよ偉そうに!今すぐ私がその好きな子とやらを探し出して、逢希とひっかえてあげたいくらいだわ」
何言ってんの、と私は小さく笑い声をあげて、今にも怒り爆発寸前という様子の晴菜をなだめた。
「いいの、晴菜。吹っ切れちゃった、あいつの中で一番から降ろされた私が悪いのよ。悔しかったけど、それならその子より私が加原の心を捉えればいいだけの話で、だけど私にはそんなことする勇気も実行力もなんにもないから、もういいの」
晴菜は悲痛そうな目であたしを見つめていたが、私自身のその言葉を聞いてだんだんと怒りもしずまってきたらしい。
私の机の反対側に椅子を寄せ、そこに座って私と向かい合った。
そして晴菜は寂しそうな笑顔を浮かべて言った。
「逢希がそれでいいなら、じゃあ私はもう何も言わない。もし新しい恋を発見したらすぐに知らせてね、まあ逢希なら大丈夫だろうけど」
「それはどうだか」
私はようやく普通に笑うことができた。
いつだって晴菜は心強くて、私を立ち直らせてくれる。
ふと私が加原のほうへ目をやると、彼は仲間たちの円から少しだけ外れて、窓際で楽しそうにおしゃべりしている数人の女の子たちのほうへ熱い視線を送っている。
よく見ると、彼女たちの内の一人は、とびきり可愛くてどこのクラスの男子からもモテてモテて困っちゃうというくらい人気の香里ではないか。
加原が面食いなのをよく知っている私は、なんだかどうでもよくなってきて、それ以上見るのをやめた。
どうせ男なんてみんな同じなんだわ。
それに、私にはあの子を越すことなんて到底できないだろうし。
だけどそんなこと、もう気にすべきことじゃない。
私は本当に吹っ切れたような気がして、晴菜に向き直ると大きく伸びをした。
「そういえばさ、こんな話題のときになんだけど」
晴菜がふと思い出したように、机に肘をつきながら口を開いた。
「何?」
「あのね、B組の高丘って知ってる?」
「うん、顔は分かるよ」
B組の高丘周一、よく廊下で騒ぐ男子たちの中に混じっているのを見かける。
特別顔が整っているわけでもなく、特別優秀だという話も聞いたことがない。
私にとっては、山ほどいる男子たちの内の一人に過ぎなかった。
だけど加原だけは違って見えたのに、と私は再び彼のことを思った。
ああもう、加原のことなんて忘れなくちゃならないのに!
私は自分で自分に言い聞かせ、彼のことを振り払った。
「彼、逢希のこと好きだって噂よ」
「……え?」
意外な台詞に、私はぽかんと口を開けて晴菜を見た。
晴菜は「最近小耳に挟んだのよ」と自分の耳を指差して、妙に楽しそうだ。
私は呆れたように言った。
「そんなのただの噂じゃない、誰かが吹聴したでまかせに決まってるわ。私、あの人と話したことなんてほとんどないのよ」
「そう?恋なんてなんでもありよ。一目惚れかもしれないし」
「ちょっと、そんな私に似合わない単語使わないでよ。ありえないってば」
私は真っ直ぐな長い髪を手櫛で梳きながら、やめてよ、と眉を下げて笑った。
しかし晴菜はそれを聞いて、驚いたように反論した。
「謙遜しちゃって、逢希は美人の上性格もいいって評判なんだから。自分のことなのに知らなかったの?だから私、一層加原の奴は馬鹿だって思うのよ」
大真面目な顔つきで語る彼女に、私はどうにも納得のいく言葉を返せなかった。
「……まあ、それが本当だったとしても私には関係ないわよ。だって、ろくに知らないような人と付き合えるわけもないでしょ?彼が私をどう思うかは、彼の好きにすればいいわ。だいたい振られた次の日に教えてもらっても、そんなこと信じられないもの」
晴菜はちょっと困ったようにうつむいて、「ごめん」と言った。
私は慌てて早口でまくしたてた。
「ごめん晴菜、晴菜のこと責めたわけじゃなくて、なんていうか私、昨日の今日でまだそういうこと考えられないっていうかまだ整理がついてないだけかもしれないけど、」
「分かるよ、うん、分かった。だけど彼のこと、少しは心の隅にでも留めておいたら?」
晴菜は優しい口ぶりでそう言った。
そうだね、と私が頷くと同時に、先ほどからずっと廊下から聞こえていた騒ぎ声が突然教室の中に飛び込んできた。
「あれ、高丘じゃない?ねえ逢希」
入ってきたのは隣のクラスの五、六人の男子たちで、見ていると加原たちが話し込んでいた机の周りにあっという間に群がった。
高丘も確かにその中にいるのを、私は自分の目で確認した。
教室の隅が、彼らの来訪によって、何かが爆発するように一斉に騒がしくなった。
「逢希、」
私がぼーっと集団を眺めていると、唐突に晴菜が何か叫ぼうとしたが、すでに時遅しであった。
机の上から、バランスを崩して逢希の開いたままの筆箱が落ちたのだ。
色とりどりのペンや消しゴムが、床に散らばる。
いきなりの出来事に、私は思わずびっくりして叫び声をあげた。
私の声に、クラス中の生徒がこちらへ顔を向けた。
「ご、ごめん、なんでもないの」
最悪だわ!
私はクラス全員の視線にさらされて恥ずかしくなり、急いでしゃがみこんで筆箱の中身を拾い集めた。
すべてをしまい終えたとき、私はふと顔をあげた。
あ、目、合った。
晴菜との会話の話題にのぼっていた彼と、バッチリ視線を合わせてしまった。
向こうにいた男子たちも、この一連の出来事を見ていたのだ。
当然のことながら、その中にはあの高丘もいるわけで。
高丘は私と目が合うと、パッと人懐っこい笑顔を浮かべた。私は思わずキュンとして、慌てて彼から顔を背けた。
な、何事?あれって彼流の挨拶だったりするの?高丘って先祖は犬に違いないわ!なんだかこう、母性本能がくすぐられるっていうか、なんていうか……ちょっと違うんだけど。
私は小さく溜め息をついた。一瞬でもときめいてしまった自分が、どうにも悔しくて仕方ない。
金曜日、私は帰ろうと玄関に向かっていた。
今日は六時から特番なのよね、なんて考えながら急いで階段を駆け下りると、靴箱の手前で加原が香里と二人でなにやら楽しそうにおしゃべりしているのが視界に入った。
「でさ、俺がそこであわよくば寸前で立ちはだかって制止したわけ!」
「あはははは、さすがー!」
何なのあいつ、もう手回してるってわけ?行動が俊敏でございますこと、香里も香里で私が加原と付き合ってたの知ってたくせに、何のつもりよ!ああ駄目、加原がどうしていようと私にはもう関係ないんだから。無視、無視無視。
私は黙って二人の横を素通りし(そう努めたのよ)、荒っぽく靴を取り出して地面にそれを半ば放り投げるようにして落とした。
靴がそろって地面に落ちる小気味のよい音が、余韻として耳の中に残る。
「ねえ」
靴を履こうとしていたところで突然肩を後ろから叩かれ、びっくりした私は勢いよく振り向いた。
「え、高丘?」
無邪気そうな笑顔をたたえ、ちょっぴりくしゃっとした真っ黒の髪、間違いなくあの高丘だった。
私はなんで彼が話しかけてきたのかまったくもって分からず、混乱しつつも靴から彼へと注意を移動する。
「さっきの、見てたよ。教室で。何ぼーっとしてたの?」
高丘がおかしそうに一人で笑うので、私は何のことか分からずにしばらく唖然としていた。しかしやっとそれがさっき筆箱を落としたことについてだと分かって、かあっと顔を赤くする。
「い、いいでしょ別に。私がぼーっとしてようと何か落とそうと、人の自由よ」
「うん、別にいいよ」
「え、あ……そう」
予想外の答えと、高丘の笑顔に私は面食らった。彼は少し間をおいて、もう一度口を開いた。
「なんかそこでお前の彼氏が他の女とそりゃもう楽しそうにしゃべってるけど、あれはほっといていいの?」
どうやら楽しそうなこの表情は彼の素らしく、常にあの笑顔を浮かべたままだ。
しかしそれよりも私は湧いてくる疑問が多すぎて、頭がパンクしそうだった。
「私、加原とはもう別れたの。っていうか、高丘には関係ないことでしょ?普段話もしない間柄じゃない。なんでいきなりそんなこと」
高丘は笑顔を崩さないまま、ちょっと首をかしげてみせる。
本当に答えを考えているのかそれともわざとなのか、彼の場合どうも判別がつきにくい。
「それは初耳……変なこと聞いちゃって悪い。うーん、でもさ、まあそう言っちゃお前の言うとおりなんだけど、たいして話さないからってこうやって突然話しかけちゃいけない理由なんてないだろ?俺がどうしようと、『人の自由』さ」
「う……」
私は、この台詞に妙な説得力を感じてたじろいだ。「理由」をなんとか見つけようと頑張ってみたが、結局何も言えない。
彼はだよね、と一人で相槌を打った。
学校から帰る生徒の集団が、一気に流れるように私たちの横を通って外へ出ていった。まだ向こうのほうから、香里の笑い声が聞こえる。
「まあ、確かに俺には関係ないんだけどね、」
高丘が笑いながら言う。
私は眉をひそめた。
意味がわからない、言ってることが矛盾してるわ。
彼はそれっきり言うのをやめて、ずっと片手にぶらさげていた自分の靴をその場で履いた。
トントン、と大雑把に靴のかかとを打つ。
何よ、言いたいことだけ言って帰っちゃうわけ?いったい何がしたかったの。
高丘はそこで振り向き、またあの思わずキュンとするような人懐っこい笑みを浮かべた。
「バイバイ」
私がその言葉を聞くのは二度目だったけど、心に浮かんだ感情はまったく違うものだった。
>>
続いてます。
この先は皆様お好きなご想像をどうぞ!(待て)
ちなみにこのサイトでの初UP小説だったりしますよ。
06/3/31 writing by saizaki