あなたの心は手に入らないと知っているから、だから







「立川、おはよう」

 頭上から聞こえる低い声。私の大好きな朝の瞬間。

「た、高橋君おはよう」

 私は今にも紅潮しそうな自分をおさえつつ、笑顔で挨拶を返した。少しだけ寝癖気味の高橋君はそのまま机の上に鞄をドサッと下ろし、椅子に座った。席は隣。毎日毎日、これでもかというくらい私をドキドキさせる距離。くじ運のない私にしては、とんでもなく幸運なことくらい分かっているけど。

 挨拶だけでも参っちゃいそうな私は、ドキドキしながら椅子に腰を下ろす。高橋君は机を開けて、鞄の中のものを詰め込んでいた。何もしないのに隣でただ座っているのも変なやつだと思われそうで嫌だったから、適当に携帯を開いて、新着メール問い合わせをしてみたり。



「あのさ、数学の宿題やってきた?」

 心臓が跳ねる。慌てて私は昨日家で数学の問題を解いていた自分の姿を思い出した。

「うんやってきたよ」
「見せてくれない?俺つい忘れちゃってさ」

 子犬みたいに真っ黒の瞳(大きさはそれほどでもないけど)で、高橋君は私を見ながら言った。そんな風に見つめられて断る人がどこにいようか。私はできるだけ自然な感じを装って、しょうがないなあと数学のノートを渡した。

「今度はちゃんとやってきてね」
「はいっすみません!今回はありがたく写させて頂きま――す――」

 高橋君は言葉の最後をちゃんと言い切らずに、たった今開いた教室のドアのほうに顔をあげて視線を向けた。私と彼のほんのちょっぴり幸せな朝の時間は、これにてあっさり終了。私は作り笑顔をして彼から目を逸らし、また携帯の画面に戻した。


「洸太、おはよ!」
「おはよう」


 私もこんな彼の声で話しかけられたいと、何度願ったことか。それほどに高橋君が彼女に向ける声は愛おしそうで、胸がきゅうっとするくらい優しい。でも、いくら私が羨望感を持ったって、もっと私を見て欲しいと訴えたって、彼の心を奪ったのは私じゃなくて彼女だけ。負けた私に文句なんて言えないのだ。

「ねぇ、洸太昨日出た数学の宿題やってきた?あたし眠かったからやってないんだぁ」

 私は携帯をカチカチ打ちながらも、耳だけ勝手にそっちに傾いた。聞くな馬鹿。

「あぁそれ、俺もやってなくてさ。立川が見せてくれるっていうから今写させてもらおうとしてたんだよ。な、立川?」
「え、あ」

 私の耳がキャッチした声に、一瞬言葉が出なかった。焦らずに、落ち着け私。

「うん――なんだったら有香も見る?」
「ホントに?沙羅ありがとうっ」

 いえいえ。これくらい慣れっこですから。全然朝飯前。どうぞ二人で仲良く写して下さいまし。

「ていうかお前今日の髪型いい感じだな」
「えー何言ってんの」
「可愛いし」
「やははありがと」

 来たよラブラブカップルが。なんでわざわざ人前でそういう恥ずかしい発言するかな。

 席は隣でも、ほんとに高橋君の隣にいるのは有香だから。所詮負け組の私。だけど、こうも見せつけられると結構きつかったりもする。
 ガタンと音を立てて席から立ち上がり、私は何気ない風に教室から出て行った。



 私が高橋君のことを好きになったのは、今から七ヶ月前の五月。中三になったばかりだったその頃の私には、誰よりも大切な祐貴という彼氏がいた。彼と付き合いだしたのは、まだ初々しい中一のとき。もともとなんだか気が合う仲のいい友達同士だったのだけれど、お互いいつのまにか惹かれあっていたらしくて、そのまま自然に付き合い始めた。

 彼といるときは自然体でいられたし、思いをなんでも打ち明けられた。そんな祐貴のことが、私は大好きだったのだ。そう、祐貴がだんだん私に冷めた態度しかとらなくなったことや、会える数がなぜか極端に減ってきたことにも気がつかないくらい、私は彼に夢中だった。だからあの日、彼に突然話があると切り出されたときも、まさかあんなことになるなんて思ってもいなかったのだ。


「いきなりごめんな」

 放課後、誰もいなくなった教室で、祐貴は申し訳なさそうにそう言った。私はまだまだ甘い考えしか持っていなくて、私にしか相談できないようなことなのかな、とか単純なことばかり思っていた。

「ううん、全然いいよ。今さら何言ってるの、大事な用なんでしょ」
「それがさ――」


 その先はもう思い出したくない。あのときの私に、これほどショックなことがあっただろうか。祐貴には好きな人がいた。私のすべてより彼女に惹かれていたのだ。そのあと祐貴はすぐに彼女と付き合い出して、私にとってはもう身投げしたいくらい辛いことだったけど、時が経てば失恋の悲しみも薄れるというのは本当のことらしい。なぜなら私はあの日彼に出会ったから。

 薄暗くなった教室で、取り残された私はしゃがみこんで、一人で泣きじゃくっていた。大好きだった。悲しかった。だけど同時に、盲目すぎた自分の甘さに悔しさも感じた。そしてまた、涙が溢れてくるのだった。


 ガタン


 扉の開く音。私はそれに顔もあげずに、ただただ泣き続けていた。

「え――ちょ、どうしたの」

 男の子の声だった。私は仕方なく顔を覆う腕の合間から上を見上げて、彼と初めて目が合った。
 戸惑いの視線を感じて、私は涙を拭きながらゆっくりと立ち上がった。彼は――高橋君は、どうしたらいいのか分からないようで困惑しているみたいだった。

「……っごめん、困らせてるよね。気にしないで……」

 途切れ途切れに私はつぶやくように言った。嗚咽が止まらなかった。

「気にしないでって言われても……さ、そういうわけにはいかんだろ。どうした?なんかあったの?」


 そのときの彼の声は、私にはとても優しく聞こえたのを覚えてる。傷心してたからかな。きっとそう。なんだかすごく安心したんだ。


「ふ……振られちゃったのさぁ」私の声は震えていた。
「……好きだったのにな……なんか自分が馬鹿みたいに思えてきちゃって」

 高橋君は黙って私を見ていたけど、やがて少し微笑んでこう言った。

「お前は馬鹿じゃないだろ。そいつが馬鹿なんだ。思い切り馬鹿にしてやれよ。もし好きなやつが出来たりしたら、見下してやればいい」


 私は言葉が出なかった。一粒の涙と引き換えに。そのときの感情をなんと言い表せばいいだろう。ただ、これだけは言える。彼のこの言葉がなかったら、私はまたひとつ涙を落とすことがなかっただろうこと。どうしようもなく暖かかったことだけ、覚えている。


 それから彼のことを好きになるまで、そんなに時間はかからなかった。高橋君の姿を見るたびに、あの不思議な感情が蘇る自分に気がついたから。そして、高橋君がクラスメートの有香ととても愛しげな視線を交し合っているのを見た瞬間、感じたことのないような痛みを覚えたから。私には何も口出しすることなんて出来なかった。だって、高橋君は私を振ったわけでもなんでもない。私は、同情してほしいわけじゃなかったのに。



 その日の授業が全部終わって、週番の私と高橋君は教室に二人で残り、週番日誌を書いていた。

「高橋君、五時間目は?」
「数学」
「あ、そっか」
「今日の授業分かった?俺まったく不明だったんだけど」

開きっぱなしの私の筆箱から出ていたボールペンを勝手に指でくるくる回しながら、高橋君はぼそっと呟いた。

「私もー……こんなじゃ今度のテストほんとにまずいかも」
「だよなぁ」
「そんなこと言ってさ、高橋君は平気なくせにー」
「いやまじでムリだって」
「謙遜いらないってば」

 高橋君は苦笑した。私もつられて笑ってしまう。この雰囲気が大好きで、ずっと続いていてほしくて、あと少しで終わってしまう時間を少しでも長引かせるために、わざわざ日誌の書く早さを遅くしてみたりして。いつかは終わるものを諦めきれない自分が嫌になったりもするけど、好きになったら最後、そんな理性なんてもう働かないものだ。

「有香が数学得意だから、いつも教えてもらってんだよね。それがなかったら、俺の成績は今頃どうなってるやら」

 胸の奥が、ズキッと痛んだ。高橋君の嬉しそうな笑顔、愛しそうな表情は私の心を一層切なくさせる。その表情が私のために向けられたものだったら、どんなに幸せだろう。

「もー、こんなところでまでノロけないでよね。彼氏のいない私の気持ちもちょっとは考える!」


 私の笑顔、苦しそうに見えなかったかな?「本当はあなたが好きなのに」っていう目をしていなかった?この胸の痛み、隠しとおせたよね。


「ハハ、ごめんごめん。立川も彼氏できるといいな。好きなヤツくらいいるだろ?」
「何さえらそうに。好きな人くらいいますっ」
「へぇ、誰?」
「そんなの秘密だよ」
「ケチだなぁ、いいじゃんそれくらい」
「よくないのー」


 だって、私が好きなのはあなただから。楽しそうな高橋君とは裏腹に、私の心はズキズキと痛みを増すばかり。私が高橋君を好きになれば好きになるほど、比例していくこの痛みはあまりにも辛くて、泣き出してしまいたかった。


「あれ、洸太っ」

 その声を聞いた瞬間、私の体は凍りついた。高橋君がハッと気がついて、後ろを振り向く。それを見たくなくて、瞬間的に私は目を逸らした。

「どうしたの、有香。もう遅いよ?俺ら週番日誌書くので居残り中」
「忘れ物しちゃってさぁ。そっか、週番ね。お疲れっ」
「まぁもうすぐ終わるし。一緒帰るか」
「うん!」


 どうしよう、泣きそうだ。


 ズキズキは最高潮に達し、これ以上聞いたらなにもかも壊れてしまいそうだった。シャーペンをきつく握り締めて、涙腺を緩ませないように踏ん張って。


「――そういうことだからさ、早く書いちゃおうぜ。立川?」

 突然、高橋君の声が私の名前を呼んだ。張り詰めていた心が一瞬とけて、私は顔をあげた。目の前には、高橋君の顔が心配そうに私を見ていて――

「ご、ごめん」
「立川?どうしたんだよ?俺、なんかした――」
「大丈夫だから!」

 私はそれだけ叫ぶと、勢いよく椅子から立ち上がって、教室を駆け出した。頬を伝う涙が、風で後ろに流れていく。高橋君が慌てて追いかけようとしてくる音が聞こえたけど、私は振り向かずに走って行った。



 高橋君、びっくりしたよね?有香と楽しく話してたのに、突然私が泣き出したりして。有香だって困っただろうし。
 ああ、なんでこんなことばっかりしちゃうんだろう。なんだかんだ言いながら、結局彼を困らせることしかしていない。だけど、あの張り裂けそうな痛みを抑えることなんて出来なかった。高橋君のことがこんなにも好きなのに、叶わない願いは私を悲しませるだけ。どうしようもなく辛くて、切なくて。



「高橋君」涙がぽろっと床に落ちる。
「好きだよぉ……」

 いつのまにか来ていた校舎の玄関で、私は一人つぶやいた。心の中では叫んでいたけれど。

「え……?」

 後ろから、高橋君の驚いたような声が聞こえた。私はばっと振り向いた。そこには、肩を上下させ、ハァハァと息を切らして立っている高橋君の姿があった。だけど、顔だけは困惑を隠せずにいる。

「立川、俺のこと……」

 今度こそ本当に終わったと思った。聞かれてしまったんだ。私が高橋君を好きなこと。しかも、よりによって本人に。

「あ……高橋君……」

 流れる空気の気まずさに耐え切れず、私は再び駆け出そうとした。しかし、高橋君は私の腕をぐっと掴んだ。振り払おうとしても、あまりにも力が強くて出来なかった。

「逃げんなよ!本当のこと、言ってくれていいから」


 私の目からはまだ涙が止まらずに流れ続けていたけど、掴まれた腕では拭くことも出来ない。まさか、こんなかたちで彼に想いを伝えるはめになるなんて――。
 彼に対する想い、有香への申し訳なさ、そして耐えることの出来なかった自分の不甲斐なさが全部混じり合って、頭の中も心の中もごちゃごちゃで、何も考えられなかった。


「だ――だって」

 私は時折嗚咽を漏らしながら、言葉を絞り出した。

「高橋君のことが好きで――大好きなんだもん!有香が彼女なのだって分かってる、分かってるのに好きなんだからしょうがないじゃない!」

 高橋君は口を半開きにしたまま私の顔を見つめていた。その困ったような表情を見て、私は溢れそうな想いをとめた。口をつぐんで、うつむいて。

「……ごめんなさい」

 小さくそう言うと、私は高橋君の手を優しく振り払ってその場を去った。彼はもう私を追いかけてくることもなく、いつまでもそこに立ったまま、呆然と私のことを見ているだけだった。





 これがすべてのはじまりだった。
 向こう見ずで、叶うわけのない願いを抱えた私の、ちいさな恋の物語。










>>



初連載です。
しかもかなり唐突な1章からスタート…。
相当ペース遅いと思いますが、どうぞお付き合い下さい。

06/9/2 writing by saizaki